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毎回1つのお題に4人のブロガーが答えていく期間限定ブログ

恋愛という極めて私的な営みを第三者の審級に委ねるな

今回のお題は「人生に恋愛が必要な理由」ですが、「人生に恋愛が必要か?」の議論がなされる前に「必要な理由」が聞かれており、「人生に恋愛が必要ではない人」が抜け落ちています。お題設定の段階で各人のデフォルト値の不一致が浮き彫りになるわけですね。

「全ての男は〜」「全ての女は〜」「人は皆〜」と大きい主語で語られながら、自身の信じる観念がするすると指の間から抜け落ちる疎外感は、しばしば怒りや悲しみに変質します。そのような地雷がそこかしこに埋められている以上、恋愛について公の場で語るのはデメリットのが多いと個人的には感じています。僕自身としては(他の人と同じように)異常な恋愛観を持っていないと信じていても、そうは思えない人がいるのでしょうし、その事について特に納得をしてもらう必要性がないのに説明責任を求められても時間の無駄です。

恋愛という極めて私的な営みの善し悪しを第三者の審級に委ねても仕方がありません。それ自体が「種の保存」や「生存戦略」といった本能の実感と結びついて、大きな主語を用いたポジショントークになりがちですし、それらのポジショントークは、必ずしも提唱者自身の規範や振る舞いとは一致せず、提唱者が有利になる理屈を通すために利用される場合さえあります。特定のクラスタに対して過剰な罪悪感や恥辱感や鈍感力などを植え付けて「自分の気持ち」の疎外を強いるタイプの言説については苦々しく感じています。

みんなどして嘘ばっかり言うのかニャー
愛も夢も口に出すもんじゃないのにニャー
結局あれだニャー
みんな一人で生きるのも死ぬのもおっかなくて寂しいから
せめて道ずれを求めてるだけなんだニャー

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恋愛に限らずとも、ポジショントークによる「道ずれ」の性質は、自身がその状況に属している当事者性と、その状況の素晴らしさを自ら信じている妄信性の有無によって分類可能です。

当事者性あり 当事者性なし
妄信性あり 素晴らしい世界をケーモー 若者応援おじさん
盲信性なし 沼地に引きずり込む 有利となる空気の醸成

自身にとっての当事者性や盲信性がないのに、私利私欲に基づいて他者をコントロールするために展開される言説もありえるわけですね。極端な例をあげると「面倒がなくて性に奔放な女性が幸福になれる」みたいな言説には「面倒がなくて性に奔放な女性が多くなると自分にもワンチャンあるでぇ。その女性の幸福は知った事ではないけど」といった意図が自己欺瞞や無意識を含めて織り込まれていく可能性があるわけです。過剰なフェアネスや不均衡なジェンダー論も同根です。

もちろん、盲信性や当事者性があるから素晴らしいという話ではなくて、むしろ本人の信じている世界の歪さが際立つことのが多いです。『SIREN』というゲームにおいて屍人(ゾンビ)は、自身が見ている素晴らしい世界を見せてあげるために「まだ人間で消耗しているの?」と襲ってくるのですが、それに近しい状況のが多いでしょう。「人間をやめた理由」を「人間をやめる必要があるか?」というコンセンサスを取る前から聞くといった凡ミスもしがちですし。そんなわけで、第三者に向けて恋愛を語るのはろくなもんじゃありません。そもそも、いい大人が他人の恋愛事情にクビを突っ込んで三人称視点で語っている時点でイタいんですよね。

ただ、だからこそ二人称におけるデフォルト値の不一致については注意深く目を向けるべきだとも思います。互いのことを深く知るほどに両者は違う世界にいることを思い知るのですが、異なる世界とのコミュニケーションを試みる過程で生まれてくるものもあります。自分にとっての「人生に恋愛が必要な理由」を強いて挙げればそういうことでしょうか。基本的に他者に理解してもらうことも、他者を理解することも放棄しているし、他人がどうなろうと知ったことではないのですが、「人それぞれ」では僕自身が困ってしまう部分においては、それなりの努力をすることがあります。自分の事しか考えていないクズだからこそ。

恋愛感情や親愛感情は「人それぞれでは僕自身が困ってしまう部分」を良くも悪くも拡張する可能性があります。相手の感情変化への同調意識が生まれて「他者」としての境界線が揺らいでいくと、喜ばれるような事をしたいとか、悲しんでほしくないという当事者性が強くなるので、結果として「普段との距離*1」が確保されるし、幸福の総量が少しだけ増える可能性があります。「分かち合えば、喜びは二倍に、悲しみは半分に」ということですね。まさに、ひとりで生きるのも死ぬのもおっかなくて寂しいのです。

ただ、この「当事者性」というのも厄介な感情で、特に恋のはじまりにおいては、それが一方的なものである可能性が非常に高いわけです。相手から分かち合いたいというコンセンサスを得る前から収奪していないかとか、不当な道ずれに陥っていないかという極私的な一人称の規範意識が抵抗を続けます。最後に残るのは直接的な関与はできないけど少しでもよくなってほしいという祈りのような感情であることもあれば、半ば強引に手を引くこともあるのでしょう。

「恋に落ちる」と表現するように恋愛感情は質量のようなものを持っていて、相手をこちらの世界の道ずれにしたいという引力の発生は避け難いのですが、その行使は互いにオプショナルです。そして発生している引力そのものに絶対的な善悪や意味はなくて、どのように位置付けるかは一人称の規範意識でも、第三者による審級でもなく、二人の問題です。恋愛という極めて私的な営みをふたりごとに拡張する過程で明示化されていく課題や問題に対して、落とし所をすり合わせたいと互いに思えた時に、人生に恋愛が必要な理由を探索する準備が整うのだと思います。

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著者プロフィール

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「3くだ」ではデザイン担当。会社員の傍ら、個人ブログ「太陽がまぶしかったから」を運営したり、企業メディアで執筆したり。通俗小説とボンクラ映画とロキノンに生かされている。
共著書に「レールの外ってこんな景色: 若手ブロガーから見える新しい生き方