ご存知の方もいるかと思いますが、私は現在、主に(チェコ好き)というハンドルネームを用いて、インターネット上の活動を行なっています。実はこのハンドルネーム、そこまで気に入っているわけじゃなくて、「鈴木朋子」みたいな本当の名前っぽい偽名を使うことにすれば良かったなーなんて思う日もあったりするのですが、とりあえず定着してしまったので、変えるのも微妙だし使っております。まあその話はいいんですが。
「インターネットとリアル」というと、だいたいの人が真っ先に思い付くのはこの「ハンドルネームの自分」と、「実社会での本名の自分」なのではないでしょうか。
ちなみに私自身は、この2つを区別しようという意識はあまりなくて、インターネットを通じて知り合った人でも、実際にお会いしたときにポロっと自分の本名を言っちゃったりすることがあります。私は一応会社員という身分なので、本名をネットで拡散されたりするとちょっと困るのですが、そうでなければ「ハンドルネームの自分」と「本名の自分」が結びついても特に問題ないと思っているし、実際に私のブログやtwitterは、リアルの友人にも読まれています。
だけど、「ハンドルネームの自分」と「実社会での本名の自分」をきっちりと区別したいという人の心情も、なんとなくわかるつもりではいます。区別したい理由は人によっていろいろあるでしょうけど、「本名の自分」が吐き出せないことを「ハンドルネームの自分」は言えるみたいな、そういうインターネットの使い方も、当然あって然るべきだと思うんですね。何か発言するなら実名でなきゃ、みたいにいう人もいますけど、自由な使い方をしていいのがインターネットだと思うから。
いろんなケースはありますが、とりあえず、「ハンドルネームの自分」というのは「実社会での本名の自分」を隠すための匿名の存在である、というのが基本的な考え方かと思います。だけど、私自身は最近、この2つの自分の”匿名性”が逆転してきているという、不思議な境地にいたりするんですよね。
どういうことかというと、自分が(チェコ好き)であることを隠すために、あえて本名を使うというシーンが、私にはちょくちょく発生しているのです。
「ハンドルネームの自分」を隠すために「実社会での本名」を使っている、つまり、ここでは「本名の自分」のほうが匿名の存在になっています。「匿名」と「実名」の逆転現象。なんだか出来の悪いSF小説のような話だと思いませんか。何が匿名であり、何が匿名でないかは、シーンによって変わるということです。
ところで、小説家の平野啓一郎は、著書『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』のなかで、「恋人と別れたときに悲しいのはなぜか」という問題提起を行なっています。「そんなの当たり前だろ」と短絡的に考えるのをちょっとこらえて、これを考えてみましょう。平野啓一郎はその理由を、「恋人と過ごしていたときの自分の人格が失われるから」と説明しています。
恋人1人に向けられた自分の人格は、いわれてみれば確かに、対その人専用に最適化された、他の人には見せない自分です。恋人を失うことは、自分のなかの一部を失うことーーなるほど、1つの解釈ではあります。
「インターネットとリアル」という区分のしかたはとてもわかりやすいですが、そのような区分をする前に、私たちはすでに、「1人でいるときの自分」「恋人といるときの自分」「職場での自分」と、いくつもの自分を日常生活において使い分けています。「インターネットとリアル」という二分法ではなく、すでにあるそのたくさんの自分のなかに、「インターネットの自分」という新たな一項目が加わるだけなのではないかと、最近の私は考えています。どうでしょうか。
まあしかし、映画を観にいくにしても美術館に行くにしてもだれかと会って話すにしても、「これは”本名の私”がやっているのか? (チェコ好き)がやっているのか?」と考えることは、実に難しいことです。
私たちはグレーゾーンをグレーゾンのまま抱え、このインターネットという魔窟を歩くしかないのでしょう。