3ヶ月だけください

毎回1つのお題に4人のブロガーが答えていく期間限定ブログ

どんなブログにも、必ず「最後のエントリ」がある。

今回のお題は、「書くことをやめる時」。ちょっとしんみりしてしまうお題ですね。

この共同ブログ「3ヶ月だけください」も、ブログ名のとおり「3ヶ月だけ」やるものなので、実はもうそろそろ終わりの時が近付いています。これ、やるほうとしては、更新日である毎週木曜日が楽しみになるくらいには、ルンルンしてたんですけどね。

さて、「書くことをやめる時」となると、たぶんこの文章を読んでいる方の大半は、それを「ブログをやめる時」とイコールでつなげるのではないでしょうか。私もやはり、このお題を聞いたとき、真っ先に思い浮かべたのが自分のブログのことでした。

しかし、よくよく考えてみればこれは妙な話で、私は何も「(チェコ好き)の日記」というブログだけで文章を書いているわけではないんですよね。些細なものをあげれば、日常におけるメールやLINEのやりとりだって「書く」ことだし、何より私は、高校生のときからだれにも見せない「紙の日記」を書いています。置き場所がなかったり管理が杜撰だったりして捨てたり失くしたり、ところどころ散逸しているんですが(その点ブログは管理がラクでいいですね)、「書く」という行為だけで考えれば、こちらの歴史のほうが私にとってはずっとずっと長いわけです。それなのに、なぜ私は「書くことをやめる時」を「ブログをやめる時」だと思ってしまったのか。

おそらく私にとっては、自分の考えたことを文章化するという行為と同等かそれ以上に、書いたものをだれかに読んでもらうということが、すごく重要なのでしょう。その理由は、承認欲求みたいなものももちろんあるけれど、純粋に、「だれかが目を通すための文章」と「自分だけが読む文章」とでは、書いてできあがるものがまったく異なるものになるからです。どちらも「書く」ことにちがいはないけれど、「だれかが目を通すための文章」を書き続けると、それは徐々に自分が見ている世界の解像度を上げていきます。そして、「自分だけが読む文章」を書き続けると、それは良くも悪くも、自分に呪いをかけていきます。手帳に夢を書くと叶う的なアレは、私は自分に良い意味での呪いをかけてるんだと思うんですよね。

私にとっては、解像度を上げることも呪いをかけることも、どちらも重要な「書く」という行為です。だけど、「書くことをやめる時」というと、なんとなく、「文章によって世界/他者と交信するのをやめる時」っていうニュアンスが漂っているように私には聞こえたんですよね。それでいて、商業的な活動とは結びつかない、極めて個人的な響きがあるような気もします。なので、「書くことをやめる時」、それは「ブログをやめる時」とイコールだと本エントリでは考えて、この先の話を進めていきます。

「ブログをやめる時」。これ、現段階では、「どれくらい先のどんなタイミングで、どういったきっかけでやめることになるのか、まったく想像がつかない」というのが私の正直なところです。時期に関していうと、たぶんこの後も1〜2年くらいは確実にやめないと思うのですが、3年先まで考えるとちょっと不透明ですね。タイミングは、このまま「書けばそれなりの人数の人に読んでもらえる」という嬉しい状態が続けばあんまりやめる気にならないとは思いますが、注目を浴びる機会が少なくなっていって、更新してもほとんどまったく反応がない、みたいな状態になると私はどうなんでしょうね。「読者が1人でもいる限り書き続けます!」とかいったらカッコイイのかもしれないけど、そういった状況でも書き続けられるかはちょっと微妙です。自己弁護をしておくと、もともとブログをやり始めた最初の1年くらいはほとんど読者がいない状況でやっていたので、そういう状態への耐性はあると思うんですよ。だけど、一度「書くとたくさんの人に反応してもらえる」といういわば甘やかされた状態を知ってしまった後で、そういった環境にもどったときにモチベーションを維持できるかというと、ちょっとわかんないですね。

だけど、確実にいえるのは、どんな人のどんなブログであっても、必ず「最後のエントリ」があるということです。それは、いつも通りに更新されてそのままフェードアウトされてしまう類の「最後のエントリ」かもしれないし、「今までありがとうございました」的な挨拶をきちんとしている「最後のエントリ」かもしれないし、はたまたいつも通りに更新されて、その後ブログの主人が病気か事故かで帰らぬ人となってしまった系の「最後のエントリ」かもしれません。生まれた人間は必ず死をむかえるように、開設されたブログも必ずいつか終わりを告げます。ちなみに、私が今まで目にしてきたなかでいちばん心に残っている「最後のエントリ」は、会社を辞めてから自殺するまでの日々を綴ったある人のブログのもので、「これから樹海に行きます」的なことを書いて終わっていました。本当に樹海に行ったのかどうかは知らないし、本気で死ぬつもりで樹海まで行って結局怖くて帰ってきたみたいなかんじだったのかもしれないし、そもそも自殺なんて嘘だった可能性もあるし、そのエントリを書いたある人が今はどうなっているのか、本当はどうだったのか、私には知る由もありません。ただまあ、心には残っています。

そんなわけで、「書くことをやめる時」というお題を聞いて、私は「(チェコ好き)の日記」というブログの「最後のエントリ」が、いったい何年先のどのような内容のものであるのかをちょっと考えてみたくなってしまいました。

今のところ、「無名の個人でも字数無制限で書きたいことを書きたいように自由に書けて、それをインターネットを使って全世界に公開できる」という意味において、ブログより優れたツールはないように思います。だけど、この先そういうことをするためのブログより優れた何かが登場する可能性は十分にあるわけで、それが現れた際に「今後はこっちに移行するからこのブログの更新はこれで終わりです。新天地でもよろしくお願いします」的なことを書いたものが「最後のエントリ」になる、私としてはまったく感傷的ではないこれが、いちばん可能性としては高いのではないかと思っています。何年先のものになるかはまったく想像がつかないですが、イメージとしては5年後くらいでしょうか。

次に可能性が高いのはなんでしょうね、私生活が忙しくなって(でも、私忙しいのが好きじゃないので意地でも忙しくしたくないというか、ある程度の余暇を残しておくことを極力貫くと思うんですけどね、しかし個人の努力むなしく不可抗力的に忙しくなってしまうことはありえます)、ブログを書く余裕がなくなってフェードアウトするパターンですかね。この場合は、おそらく更新頻度が徐々に下がっていき、twitter上とかでも見かけなくなっていき、久々にいつも通りの更新をしたと思ったらそれが「最後のエントリ」になっていた的なかんじで終わるんですかね。が、私は(チェコ好き)を名乗って文章を書くことにかなり愛着がわいているので、この場合は1〜2年その多忙な時期を休眠状態とした上で、また復活する気がします。そうなると、これは結局中の人が死ぬまで続くわけですね。それはそれでちょっと非現実的な気がしますね……。

と、他にもいろいろ考えてみたのですが、どれもいまいちピンときません。「いつか書くのをやめる未来」を想像しても埒が明かないっぽいので、「書くのを始めた過去」というか、自分の文章の原型はどこにあるのかというのを、次に考えてみました。

私の文章の原型は、たぶん大学時代にできあがったんじゃないかなあと思います。小学生の頃から作文を褒められたりはよくしていたし、書くのが得意な自覚は生意気ながらかなり昔からあったのですが、どういうものを書きたいとか、どういうふうに書くのがいちばん楽しいかとか、高校生くらいまではそこまで考えてなかったですね。たまに、「大学生のときからブログをやっていたら、もうちょっとちがう人生だったかもしれないなあ」的なことを考えたりもするんですけど、よく考えたら大学のときの私にブログは必要なかったですね。なぜなら、ことあるごとに学校からレポートの提出を求められたからです。作品を観て、あるいは日常生活のなかの出来事を抜き取って、それらを自分の頭のなかのフィルターを通して「解釈」する、あるいは「再現」する。たぶんそれが私の原型なので、ブログのほかにそういうことができるいいかんじの場が用意されたら、私にはブログは必要なくなる……かもしれません。当時は「ダルいなあ」と思いながらレポート書いてましたけど、今のブログもわりと「ダルいなあ」と思いながら書いているので、私はダルいのが好きで楽しいんだと思います。


次にレポートのような、ブログのような場をあたえられたら。そのときが私にとって「最後のエントリ」を書く機会になるかもしれません。始まりがあるものには必ず終わりがありますが、強く意識される「始まり」に比べて、「終わり」はおざなりにされがちです(特にブログ程度のものだと)。だけど、「これはいつか終わる」と思いながら取り組むと、どんなものでもその一瞬一瞬を大切にしようという気持ちが……わいてきませんか、まあ次の瞬間には忘れるんですけど。

「3くだ」の終わりは見えているし、最初からわかっていたのでおざなりにはしませんが、「(チェコ好き)の日記」はどうかな。必ず書くことになる「最後のエントリ」を、なるべくきちんとした形で整えてあげたいなあと思います。いや、整えないほうがかえっていいんだろうか……。


この世界は諸行無常、私にはまだまだ修行が足りないようです。


著者プロフィール

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(チェコ好き)の日記」で旅・読書・アートのことを書いてるひと。芸術系大学院卒、専門はシュルレアリスムと1960年代のチェコ映画。ブログはBLOGOSにも寄稿(転載)中です。好きな言葉は「優雅な生活が最高の復讐である」。